論語とエクリチュール(続)ーアジアのエクリチュールを求めてー《仁》について
ファシズム下の1942年に行われた「近代の超克」論争、悲惨な結果終わってしまったが、その問題提起まだ解決しておらず、コロナ世界大戦下図らずも未解決の問題=弱点が露呈する事になった、その糸口として論語の「仁」の概念とロラン・バルト達の「エクリチュール」を挙げてみたい
「仁」とは家族愛から発達した、「他者の心中を思いやること」であり、深い人間愛を基本とするものである、これは最近言われている自閉症スペクトラム理論の「心の理論」と共通するものである
心の理論を獲得したかどうかの有名なテストで「サリーとアンの課題」と言うのがある
●サリーとアンの課題
サリーとアンが同じ部屋で遊んでいます。
サリーはビー玉をかごの中に入れて部屋を出ていきます。
サリーがいない間にアンは、ビー玉をかごから出して箱の中に入れます。
しばらくしてサリーが部屋に戻り、ビー玉をさがします。
さて、サリーはどこを探すでしょうか?
1.かご 2.箱
答えは1の「かご」です
しかし自閉症スペクトラムの人は自分が見たままの「箱」と答えてしまいます、つまり
相手の気持ちを推し量る能力=想像力の欠如、弱点があると思われます、最近の政府の政策を見ているとこの「心の理論」=「仁」の欠落を感じるのは僕だけではないと思い
ます、アジアの民主主義を下支えするのは「アジア的エクリチュール」≒「仁」ではないかと思っています