ジェネラリストの罠!-日本は何故、サル山かするのか?ー

日本の社会を「サル山」と例える事が多い、真ん中にボスがいて同心円状・ピラミッド型に権力関係が決定している社会である、しかし「サル山」の典型と言われるニホンザルの実態は違うという、我々が馴染んでいるニホンザルの「サル山」構造は実は「餌付け」されたニホンザルでしか現れないと言う、自然状態のニホンザルはボス=リーダー

 

は場面、場面ごとに入れ替わってるという、危ない山と山の間の幹線道路をサルの集団が渡る時、それに熟練しているサルがリーダーシップを取ると言う、木の実を取る時、それに熟達したサルがリーダーシップを取ると言うetc.、そこに固定したリーダーは存在しないが、そのやり方が集団に取って最適な生存戦略なのである、では?何故、餌付けさ

 

れたサルたちは「サル山」を作ってしまうのだろうか?何故なら餌付けされた生活つまり半分「家畜化」された生活は安全であるが「単調で、退屈で、均一な」生活であり、誰でもできる「仕事=行動」であって腕力だけが「差異化」する「ものさし」なのである、この「サル山」のニホンザルの様なことが「ジェネラリスト化したサラリーマン」に生じている

 

のではないだろうか?本来人間は「ふぞろいの林檎たち」である、それを長年の学校教育、企業の新人教育と「纏足(てんそく)」のように均一化=コモディティ化しようとして来た、その最終形態が「企業のジェネラリストの生産である」、それはその企業を離れると(何故ならその企業のみでしか通用しない掟=マニュアルを長年にわたり研鑽

 

を重ねてきたので)通用しない様に去勢された「家畜」=「社畜」なので、その「閉じられた世界の中」でどうでもいい、全く意味を持たない「差異」でマウンティングを繰り返すことによっていわゆる「サル山」を形成してしまうのであるが、悲しい事に今日の多様化している社会の中では99%役立たずで、害悪になる事もしばしばの「存在」に

 

成り下がっているのである、ある人はそれを「オッサン資本主義」と呼ぶ人もいる