老子と贈与論

 老子の言葉の中に「本当の親切とは、親切にするなどとは考えもせずに行われるものだ。」と言うのがある、これは「贈与」の本質を付いた言葉である、「贈与」は見返りを求める「交換」とは違い一方的に与えるものである、何かの拍子に「返礼」が生じることがあるが本質は予期せぬことなのであり、その「偶然性」が消え何らか

 

の「必然性」が生じた時はそれは「贈与」でなくなってしまうのである、だから昔ばなしの「鶴の恩返し」は鶴である正体を見られその「女房」の存在が「恩返し」であったという「必然性」が生じた瞬間に「贈与関係」が消滅してしまったので鶴は去っていったのである、同じ事は「親子関係」というものは岸田秀が「ものぐさ精神分析」の中で

 

言っている様に「返礼=見返りを」を期待しない一方的な「贈与」である、そして子どもはまた自分の子どもに「贈与」して行くという連綿とした流れである、しかしたまに「親の願望=利益」を求めることがある、例えば良くある自分自身の「学歴コンプレックス」を子どもを利用して「リベンジ」しようとする親がいる、これはどんなにお金などを子どもに掛

 

けたとしてもそれは「贈与」ではなく「交換」でしかなく「家畜化」「ペット化」ではない「親子関係」の中では本質的に「虐待=暴力」である!