村上春樹とコロナと人類学(2)

偶々Twitterを見ていたら「哲学」のツイートを拾ってくれるツイッターサービスから人類学者のツイートで次の文章に出会った≪私はどこまで行っても私。でも人類学のフィールドワークを通じて「他性」との出会いを通じて、内なる「外(非私)」を「発明」できる、それを通して「変身」可能である。そこに人間の「無限」の可能性がある。これは我々が日々経験する事だが、その絵を学問的に描く点に人類学の核心がある。変身=人類学。 by深川宏樹≫ これを読んだ時、「これって、村上春樹文学の本質を描いているのでは?」と思った、直ぐにツイート主にそのように「返信=変身」をした、村上春樹は今生きているヴィヴィッドな世界をフィールドにして「ありうべき未来=他性」と出会い、「内なる外(非私)」=小説を「発明」し、作家自身が「変身」するのである!そして同じ「心的作業」を読者も、村上春樹=伴走者=伴奏者も行うのである(たまにこれが頑なに出来ない人が存在する)、つまり村上春樹文学は無限ループを描くのである、プルーストの「失われた時を求めて」が作者の死後100年間もサグラダ・ファミリアの様に未だに成長している様に村上春樹文学は読者と共に無限に成長していくのである、リゾームとして、

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深川宏樹
 
@takeptendep
 
私はどこまで行っても私。でも人類学のフィールドワークを通じた「他性」との出会いを通じて、内なる「外(非私)」を「発明」できる。それを通して変身可能である。そこに人間の「無限」の可能性がある。これは我々が日々経験することだが、その絵を学問的に描く点に人類学の核心がある。変身=人類学
 
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