ボヤキと西田幾多郎 ―ボヤキと言う独特なコミュニケーションによる《善の研究》の読みー

ボヤキのコミュニケーションの天才として直ぐに思い浮かぶのは「女を取るか野球を取るか?」と社長に迫られ、女を(野村沙知代)取った野村克也監督は京都の出身である、そして京大には日本唯一の空前絶後の哲学者と言って良い西田幾多郎がいた、その西田の主著である《善の研究》は誰もが絶賛するが、実際に読んでみると実に読みづら

 

く難解である、解説書もおびただしい程あるがほとんど「帯に短したすきに長し」と言う感じで理解が困難であった、その時モノローグと対話の中間形態である「ボヤキ」についてのツイートを見てこれではないかと思った。つまり《善の研究》は西田による「哲学的ボヤキ」ではないかと言う『読み』である、早速《善の研究》をボヤキの視点

 

から読んでみる(眺めてみる)と中々いい感じである、上手く本の文体のリズムに乗れる感じである、余り上段から構えるとスルリと逃げてしまう西田の文体であるが、こちらも「流れに身を任せる」様にすると西田の独特な文体の中に入り込めるのである、多分彼の流れるような文体は禅の修行から来たのではないかと推測している、