論語とエクリチュールーファシズムを乗り超えてー

ファシズム下の1942年に行われた近代の超克」論争、悲惨な結果終わってしまったが、その問題提起まだ解決しておらず、コロナ世界大戦下図らずも未解決の問題=弱点が露呈する事になった、その糸口として論語の「仁」の概念とロラン・バルト達の「エクリチュール」を挙げてみたい 

 

 

 

エクリチュールの「非責任」と「政治」1)
上田和彦」の論文からランシエールエクリチュール論を引用したい

 

「民主主義とエクリチュール
ランシエールは、フランス革命後、民主主義の進展とともに、文学の中心的
な場がパロールからエクリチュールに移行していくと診断する。フランス古典
主義時代において、文学の言葉は主に一部の教養人によって分かち持たれ、そ
こでは、話される言葉(パロール)が文学言語の中心であったとみなされる。
悲劇を頂点としてジャンルが階層化され、威厳のある登場人物の言葉を劇場に
学びにくる特定の人々に向けられるパロールこそ、文学言語の規範であった。
すなわち、君主政の「ポリス」的秩序において分け前に与ることができる人々
と、パロールを分かち持つ人々が重なっていたということだ。それに対してフ
ランス革命後は、あらゆる市民に語る自由が平等に認められるのと軌を一にし
て、文学の場においてエクリチュールが優勢になっていくと診断される。高貴
な人間の模倣という規範が崩れ、あらゆる人々の平俗な生、あらゆる事物が文
学の主題となり、不特定多数の民衆に文学は差し出されることになる。すなわ
ち、文学の中心的な場が劇場から書物に移行し、そこでは主題が無差別に選ば
れ、その限りにおいて「平等主義的」になったエクリチュールが、あらゆる読
者に無差別に、すなわち平等に、差し向けられることになったということだ。
民主主義とエクリチュールは、歴史が展開していくなかで、たまたま親和性
【T:】Edianserver /関西学院大学/外国語外国文化研究/ⅩⅥ/
上田和彦 (訂正なし) 校
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を持つようになったのか。ランシエールの議論で興味深いのは、民主主義とエ
クリチュールには、そもそも密接なつながりがあると見なされている点だ。例
えば、ランシエールは次のように言う。
民主主義は事実、諸権力の異なる分配の仕方によって単にほかの体制と差異を示す
体制ではない。それはもっと根本的に、感性的なものの特定の分割=共有
〔partage〕として、すなわち、感性的なものの様々な場所の特殊な再分配として定
義される。そして、この再分配の原理そのものは、後見人のいない、自由に歩き回
る、あの文字の体制であり、私たちはそれを文字性〔littérarité〕と呼ぶことがで
きよう。民主主義はエクリチュールの体制であり、その体制においては、文字の倒
錯が共同体の法そのものと一致する。民主主義は、エクリチュールの諸空間によっ
て確立されているのであって、それらの空間は、あまりにも多くの人々が住み着く
空虚と、あまりにも饒舌な沈黙によって、共同体のエートスの生き生きとした織物
に穴を穿つのである。4)
このようにランシエールは、民主主義はエクリチュールの体制であると言
う。ランシエールが民主主義と呼ぶ体制とは、言葉を話すことができる者は、
いかなる者であっても平等である」

 

 

というように貴族的な特殊な言語空間であるパロールの世界から誰もがアクセス可能な「書物」の世界、つまりエクリチュールに移行して万人が平等の可能性が存在することによって「民主主義」の前提が担保される様になる

 

 

それは言葉に対する「信頼」と「責任を負う」事で成立する世界である、ロラン・バルト達によるエクリチュール分析によってヨーロッパの民主主義の前提はエクリチュールであると言う事が浮き彫りになったが、ひるがえって見て我々アジア人にとっての

 

 

民主主義の前提は何なのだろうか?そこで僕は「儒教」の中の「仁」と言う「思想」を取り上げてみたいと思う、≪続く>