贈与論

「贈与」という事を考えている、贈与は「交換」「契約」ではなく一方的に与えるものである。岸田秀が「ものぐさ精神分析」で言っている様に親の子供への「投資」は一方的なもので子どもは選択の余地がないし親の投資が無ければ子どもの「存在自体」が成り立たない、そして岸田が言うには決して「贈与されたモノ」を親自身に「返すこと」が出来ないと言う、岸田の解決策は与えられたモノを子供自身の「子ども」又はそれに「類する存在(生徒、弟子、ペットetc.)」に返していくしかないというものである。「贈与論」で最も問題になるのが贈与されたモノは贈与された人間にとって「負債」としている重くのしかかり時に潰される事もあると言うことである、いわゆる日本人がとても嫌がる「恩を売られる」と言うヤツである。それは、西洋文化でもあるようでプルーストが「忘恩の法則」ということを言い出すくらいである。贈与論を語る論者は「贈与交換に基づく贈与経済の社会」を夢見る(シャンソン人形)がほとんど全てこの「恩を売らずに」贈与するという難題で全て躓いている。時たま一時的に成功しているものもカルト的成功でしかなく残念ながら「普遍」にまで到達し得ていない。これがどれ程困難なことかは「大きな贈与」は家族を通してしか行われない事を見ればわかる、そしてこの「大きな」という所に実はヒントがあるのではないかと考えている。「大きな贈与」は難しいが「小さな贈与」は意外に簡単であると言う「当たり前と言えば当たり前のコト」に大きなヒントが隠されているのではないだろうか?